随生庵のブログ

和の美が好きなので、「わび数寄常住」の思いをつらつらと。

枯野のうれしさ

 冬の到来と共に野山の植物は錦を脱ぎ捨てて赤茶けた枯れ色に沈み込む。何とも物寂しく冷え冷えとした風情だが、齢半白を過ぎてこの枯野の風景が何とも言えず好きになった。そんな晩秋の景色を詠んだ代表的なものが「三夕(さんせき)の和歌」だろう。

 

  さびしさはその色としもなかりけり槇立つ山の秋の夕暮れ     寂蓮法師

 

  心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ      西行法師

 

  みわたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ      藤原定家

 

 どの和歌も幽玄枯淡の境地を詠んだ名歌とされている。寂蓮や西行の歌はまだ情景として理解できたが、定家の歌は若い時にはどこがいいのかさっぱりわからなかった。しかし、茶の湯に親しむようになって初めて、この定家の歌が腑に落ちるようになった。

 この歌は古来解釈が分かれる歌とされ、北村季吟本居宣長を始め斎藤茂吉佐佐木信綱に至るまで様々に解釈が論じられてきた。批判を恐れずに私なりの歌意を述べれば、「どこを見渡しても、春の花も秋の紅葉もありはしない。うらさびれた漁師の小屋が閑かに立つだけの海岸沿いの秋の夕暮れの景色よ。」という感じだろうか。人影も物音も、動くものも途絶えた閑寂の世界だ。同じく定家の和歌として有名な「駒とめて袖うちはらふ陰もなし佐野のわたりの雪の夕暮れ」も趣意としては同じといえる。人事と隔絶した寄る辺の無さとその果てに見えてくる大きな自然との一体感。もちろん当時の歌人たちに「自然」などという無粋な言葉は存在しなかったのだが。

 雪国に生まれ育った私には枯野の景色は長く暗い冬の季節を予感させて、以前は嫌悪感さえ抱いていた。しかし、枯れ果てて死に絶えているかのように見える草木も、春になれば必ず新たな芽を吹き、再び息を吹き返す。今まで何十回となく冬を越してきたというのに、そんな当たり前のことに私は本当の意味では気付いていなかった。真のいのちのありがたさというものが見えていなかったのである。それに気付かせてくれたのは茶の湯の世界であった。

 今は枯野を目にすると身が引き締まると同時に、なぜかワクワクとうれしくなる。この枯れ果てた景色も、季節の巡りとともに緑の生を必ず取り戻すことを確信しているからである。禅の言葉で言うならば、無一物中無尽蔵というところだろうか。今日は茶室の床に「春来草自生」の一行を掛けた。